同族会社のクレームは、人事異動でリセットされない ― オーナーの記憶は、会社の記憶である

一般企業を担当していた方が、オーナー企業の担当に移ったとき、最初につまずくのがここです。

同族会社では、クレームが時間で消えません。

一般企業なら、担当者が異動し、決裁者が交代し、数年経てば取引が再開されることがあります。人が入れ替わることで、関係が自然にリセットされるからです。

同族会社には、そのリセットがありません。オーナーは十年後も二十年後も、同じ席に座っておられます。18年間、執事として創業家のご一族に仕えてきた立場から、この構造を書きます。

第1章|四つの軸で、決定的に違う

比較の軸一般企業(非同族)同族会社・オーナー企業
意思決定稟議・合議制。理屈で覆せるオーナーの一存。感情で即決
担当交代数年で異動。人が入れ替わるオーナーは数十年変わらない
組織の記憶引き継がれず、時間で薄れるオーナーの記憶=会社の記憶
再挑戦部署が変われば余地がある「あそことはやらない」が方針になる

意思決定が、理屈で覆せません。稟議書の完成度を上げても、比較表を精緻にしても、決めるのはオーナー一人です。しかも感情で即決される。これは非合理ではなく、決裁者が所有者本人であるため、他人を説得する必要がないというだけのことです。

担当交代がありません。こちらの担当者は数年で替わりますが、相手は替わりません。この非対称性が、すべての起点になっています。

第2章|「記憶の非リセット性」という構造

一般企業では、こういう経過をたどります。クレームが発生する。担当者が異動する。決裁者が交代する。数年後、取引が再開される。人が入れ替わることで、記憶が薄まっていくからです。

同族会社では、こうなります。クレームが発生する。オーナーは同じ。記憶も同じ。取引は戻らない。

記憶の非リセット性とは、意思決定者が数十年替わらない組織において、一度の失敗が人事異動によって薄まらず、組織の方針として固定されてしまう性質のことである。

厄介なのは、これが「怒り」として残らない点です。数年後には感情は消えています。残るのは方針です。「あそことはやらない」という、淡々とした一行だけが残る。そして、その方針を覆せる人は、社内に一人もいません。

第3章|だから、時間軸を変える必要がある

ここから導かれる結論は一つです。同族会社のクレームは、「今日どう収めるか」ではなく「これから30年の関係をどうするか」という問いとして扱う。

この違いは、選ぶ言葉に直接表れます。早く終わらせようとすると、説明が短くなります。責任の所在を決めようとすると、言い訳に聞こえます。社内基準に収めようとすると、規則を盾にすることになります。処理は済みますが、関係は終わります。

三十年で考えると、行動が変わります。聴く時間を惜しまなくなる。原因を自ら開示するようになる。収束後も報告を続けるようになる。

その言動は、10年先まで関係を続けるために正しいか。



第4章|謝る順序を、間違えてはいけない

同族会社で信頼を回復するとき、誰に、どの順で伺うかが結果を左右します。

  1. オーナー/会長|最終決裁者です。感情で決められる方なので、まずここへ伺います。
  2. 番頭・実務の窓口|ここを飛ばすと、その方の社内での立場を失わせてしまいます。オーナーに直接話が通ったと知られた時点で、実務担当者は面目を失う。次からその方が壁になります。
  3. 後継者(ご子息)|次の二十年の取引相手です。今回の姿勢が、そのまま判断基準として記憶されます。

順序を誤ると、回復が新たな失礼になります。飛ばさず、同じ説明を、同じ精度で。これが鉄則です。

第5章|波及も、縦と横に広がる

同族会社のお客様は、「一法人」ではありません。には、配偶者、ご子息、後継者、資産管理会社、持株会社、事業法人が連なっています。には、経済団体や業界団体で顔を合わせる同格の経営者たちがいます。

一件の失敗は、この二方向へ同時に伝わります。しかも薄く広くではなく、濃く深く。

ただし、ここを反転させることもできます。悪い評判が通る道と、良い評判が通る道は同じです。回復できれば、「逃げなかった人」として記憶され、任される範囲が広がり、後継者と法人へ広がり、同格の経営者から紹介が来ます。この構造については 富裕層のクレームは、なぜ「別物」なのか で詳しく書きました。

第6章|オーナー企業の判断は、なぜ長いのか

オーナー経営者の判断が遅く見えることがあります。収益性で明らかに劣る選択をされることもある。管理が簡単だから、揉めないから、という理由で。

これは判断力の問題ではありません。意思決定の主語が「私」ではなく「一族」だからです。この構造については 富裕層と超富裕層は何が違うのか に書きました。

主語が一族に広がると、時間軸も数十年に伸びます。そして数十年で考えている相手に、こちらの期末で急かす提案をすると、検討の土俵にすら乗りません。

同族会社との取引で問われているのは、営業技術ではなく、相手と同じ時間軸に立てるかどうかです。

よくあるご質問

同族会社と一般企業では、営業で何が違いますか。

意思決定がオーナーの一存であること、担当者が数十年替わらないこと、そして組織の記憶がリセットされないことです。稟議の精度より、オーナー個人との関係が結果を決めます。

「記憶の非リセット性」とは何ですか。

意思決定者が数十年替わらない組織で、一度の失敗が人事異動で薄まらず、組織の方針として固定される性質のことです。新井直之が用いている概念です。

同族会社でクレームが起きたら、誰に謝るべきですか。

オーナー、実務の窓口、後継者の順です。窓口を飛ばすとその方の社内での立場を失わせ、後継者を飛ばすと次の二十年を失います。順序を誤ると、回復が新たな失礼になります。

オーナー経営者の判断が遅いのはなぜですか。

意思決定の主語が個人ではなく一族だからです。数十年先の承継まで含めて判断されるため、収益性で劣る選択をされることもあります。

一度失った同族会社との取引は、戻せますか。

時間では戻りません。人が替わらないためです。戻すには、約束したことを約束した日に実行し続ける以外の方法がありません。

この内容で研修を依頼できますか。

承っております。同族会社・オーナー企業を担当される営業部門向けに、意思決定構造と関係構築をテーマとした研修を実施しています。


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執筆者について

新井直之(あらい・なおゆき)
執事/おもてなし・ホスピタリティ・富裕層専門家・ビジネス書作家。日本バトラー&コンシェルジュ株式会社 代表取締役社長。一般社団法人 日本執事協会 代表理事、同協会附属 日本執事学校 校長。

2008年の創業以来18年にわたり、資産家・企業経営者・著名人のご自宅に執事として入り、日常の一部始終に立ち会ってきました。本稿の記述は、そのすべてが現場での一次的な観察にもとづいています。

著書は累計50万部を超え、台湾・中国・韓国などで翻訳出版されています。代表作に『執事だけが知っている 世界の大富豪 58の習慣』(幻冬舎)、『執事が教える 相手の気持ちを察する技術』(KADOKAWA)があります。

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