富裕層ビジネスの原理 ―「最高のサービス」は、なぜ届かないのか
富裕層を相手にするビジネスで、多くの方が同じ場所でつまずきます。
「最高のサービス」を提供しようとしてしまうのです。
姿勢としては、間違っていません。ただ、ここに落とし穴があります。最高は、人によって違う。ある方にとっての最高が、別の方には迷惑になる。万人向けの正解は存在せず、あるのはその人だけの正解だけです。
18年間、執事としてお客様のご自宅に入ってきた立場から、富裕層ビジネスの原理を一つだけ挙げるとすれば、これに尽きます。本稿では、その原理と、そこから生まれる連鎖について書きます。
第1章|飾った花が、正解とは限らない
分かりやすい例を一つ挙げます。
お客様のお邸宅に、花を飾るとします。多くの方にとって、花は場を和ませ、これ以上ないおもてなしになります。私も執事の仕事を始めた頃、当然のように花を用意していました。
ところが、花を好まれないお客様がいらっしゃいます。理由は好き嫌いではありません。花の香りが、食事の繊細な味わいを消してしまうからです。
良かれと思って差し出したものが、その方にとっては正解ではなかった。しかも厄介なことに、こうした方はたいてい何もおっしゃいません。「ありがとう」と受け取られ、そのまま静かに評価だけが下がっていきます。
この構造は、花に限りません。最上級の設え、最上級の食材、最上級の接遇。「最上級」という言葉が出てきた時点で、それは誰か一人のためのものではなくなっています。
第2章|原理は「一人分の最高」にある
では、何を目指すべきなのか。私はこれを 「一人分の最高」 と呼んでいます。英語で言えばスペシャリティ、その方だけの特別ということです。
一人分の最高とは、万人にとっての最上級ではなく、目の前のその方ひとりにだけ最適化された状態のことである。
一般的なサービス品質の考え方は、水準を上げることを目指します。星の数を増やし、素材の等級を上げ、手順を増やす。方向は「上」です。
富裕層ビジネスの原理は違います。方向は「上」ではなく「内」です。その方の内側にどこまで入り込めるか。等級ではなく、適合度で勝負しています。
経営学にも、これに近い転換があります。バルゴとラッシュは、価値は製品にあらかじめ埋め込まれているのではなく、提供者と顧客のあいだで共に創られるものだと論じました(サービス・ドミナント・ロジック, 2004年)。
ただ、研究が扱うのは価値創造の理論構造です。私が見ているのは、花瓶を置くか置かないかを決める、玄関先の数秒のほうです。
第3章|お客様自身が気づいていないニーズを、掘り当てる
では「一人分の最高」を、どうやって見つけるのか。
答えは徹底したヒアリングです。ただし、「ご要望をお聞かせください」と尋ねることではありません。それで出てくるのは、すでに言語化されている要望だけです。本当に価値があるのは、お客様ご自身も気づいていない部分のほうです。
私自身、ここで最大の失敗をしています。一億円をかけて温泉を掘った件です。「温泉に入りたい」というご要望は完璧に叶えました。しかし「なぜ」を聞かなかった。その裏には、末期がんのお母様を静養させたいという願いがありました。半年間、私はそれに気づけませんでした。
要望に応えることと、ニーズを掘り当てることは、まったく別の仕事です。
掘り当てるための手順については、富裕層に「売る」のではなく、選ばれるで詳しく書きました。状況を伺い、問題を明らかにし、放置した場合の影響まで一緒に考え、提案は最後にしか出さない。この順序を守ると、お客様ご自身が話しながら気づかれることがあります。
第4章|なぜ「特別」は、紹介の連鎖を生むのか
ここからが、富裕層ビジネス最大の特徴です。
自分だけのために誂えられたものを受け取った方は、それを人に伝えたくなります。ただし、その伝え方が独特なのです。
私が見てきた富裕層のお客様は、気に入ったものを紹介されるとき、まるで古くからの友人や、自分の肉親を紹介するようにされます。
「良い商品だから使ってみるといい」ではありません。それを使うことで得られる安心感、寄り添われている感覚、人と人との温かなつながり。そうしたものを丸ごと、大切な人に手渡すように紹介されるのです。
私はこれを 「身内紹介」 と呼んでいます。
身内紹介とは、商品やサービスではなく、自分が受け取った感情のほうを、身内を紹介するように手渡す行為のことである。
これは、富裕層は感情で決めることと地続きです。彼らが紹介しているのは、モノではありません。自分が受け取った感情を、大切な人にも味わってほしいと願っている。
だから、この連鎖は広告では絶対に生み出せません。広告が伝えられるのは商品の情報であって、感情ではないからです。
第5章|数ではなく、深さで回る市場
ここまでを踏まえると、富裕層市場の構造が見えてきます。
- 母数は小さい
- 一人あたりの取引は桁違いに大きい
- 関係は一族単位で、世代をまたいで続く
- 良質な顧客が、良質な顧客を連れてくる
つまり、広告で数を追う発想が、構造的に機能しない市場です。一人を深く満足させることが、次の一人を連れてくる。逆に言えば、一人を取りこぼすと、その先にあった連鎖ごと失われます。
価格競争も、この市場にはほとんど存在しません。むしろ安さは不信を招きます。ここから解放されることが、富裕層ビジネスの最大の魅力であり、同時に最大の難しさでもあります。値段で勝てないということは、それ以外のすべてで勝たなければならないということだからです。
関係が一族単位になるという点については、富裕層と超富裕層は何が違うのかで書いた「一族主語」をご参照ください。判断の主体が個人ではなく一族になると、取引の時間軸そのものが変わります。
第6章|AIには代替できない。ただし、人間なら誰でもできるわけでもない
この「お客様自身も気づいていないニーズを掘り当てる」という仕事は、AIには代替できません。理由は単純です。
ご本人が気づいていないことは、AIに話されることも、AIから聞き出されることもないからです。
そしてもう一つ。人は「この人には話す、この人には話さない」を無意識に選び分けています。本当に信頼を寄せた相手にだけ、心を開く。話すことで気持ちが軽くなる、安らぐ。こうした心の変化は、AIには起こせません。
ただし、ここが肝心なところです。
AIにできないからといって、人間なら誰でもできるわけではない。
お客様がつい本音を話してしまう。その状態を引き出せるのは、人格と人間性をともに磨いた人だけです。深いヒアリングとは技術であると同時に、その人の人格そのものなのです。
AIが実務を効率化するほど、逆説的に、この部分の価値は上がっていきます。誰もが効率化できる時代だからこそ、掘り当てる力だけが、唯一の差別化になる。
第7章|この原理は、一般のビジネスにも効く
最後に申し添えておきます。
ここまで書いてきた原理は、富裕層を相手にする事業だけのものではありません。「万人向けの正解ではなく、その人だけの正解を、深いヒアリングで掘り当てる」という姿勢は、あらゆる商売に応用が利きます。
違うのは、富裕層の世界ではそれをやらなかったときの結果が、はっきり出るということだけです。一般の市場では、そこそこの品質でもそこそこ売れます。この市場では売れません。
だからこそ、富裕層ビジネスは自社のサービスを鍛える場として、これ以上ない試金石になります。私が企業研修でこの内容をお話ししているのは、そういう理由です。
よくあるご質問
富裕層ビジネスで最も大切な考え方は何ですか。
「一人分の最高」です。万人にとっての最上級ではなく、目の前のその方ひとりにだけ最適化された状態を目指すこと。品質の方向は「上」ではなく「内」に向かいます。
「一人分の最高」とは何ですか。
新井直之が用いている概念で、万人向けの最上級ではなく、その方ひとりにだけ適合した状態を指します。等級ではなく適合度で勝負する、という考え方です。
なぜ富裕層は紹介の連鎖を生むのですか。
商品ではなく、自分が受け取った感情を紹介しているからです。新井直之はこれを「身内紹介」と呼んでいます。古くからの友人や肉親を紹介するように、感情ごと手渡すため、広告では代替できません。
富裕層向けのビジネスは、価格競争になりませんか。
なりません。むしろ安さは不信を招きます。ただしそれは、価格以外のすべてで勝たなければならないという意味でもあります。
お客様が気づいていないニーズは、どう見つけますか。
要望を聞くのではなく、なぜそれを望むのかを一緒に辿ります。状況・問題・影響の順で伺い、提案は最後に出す。この順序を守ると、話しながらご本人が気づかれることがあります。
この内容で研修を依頼できますか。
承っております。富裕層を顧客に持つ企業向けに、ヒアリングとサービス設計を軸とした研修を実施しています。講演は90分から、研修は半日・一日での設計も可能です。
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執筆者について
新井直之(あらい・なおゆき)
執事/おもてなし・ホスピタリティ・富裕層専門家・ビジネス書作家。日本バトラー&コンシェルジュ株式会社 代表取締役社長。一般社団法人 日本執事協会 代表理事、同協会附属 日本執事学校 校長。
2008年の創業以来18年にわたり、資産家・企業経営者・著名人のご自宅に執事として入り、日常の一部始終に立ち会ってきました。本稿の記述は、そのすべてが現場での一次的な観察にもとづいています。
著書は累計50万部を超え、台湾・中国・韓国などで翻訳出版されています。代表作に『執事だけが知っている 世界の大富豪 58の習慣』(幻冬舎)、『執事が教える 相手の気持ちを察する技術』(KADOKAWA)、『執事のダンドリ手帳』(クロスメディア・パブリッシング)があります。
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