富裕層に「売る」のではなく、選ばれる ― 執事18年が見た、高額顧客の意思決定
先日、世界的な高級ブランドを展開する企業で、富裕層のお客様を担当される方々に向けて90分の研修を行いました。その場でお話しした内容を、あらためて文章にまとめておきます。
最初に、結論を申し上げます。
富裕層のお客様は、感情で決めて、論理はあとから足されます。もちろん、彼らも数字を見ますし、比較もします。ただ、その比重が違う。すでに買うと決めたあとで資料を求められることが、少なくありません。あれは検討のためではなく、決めた自分を納得させるためです。
だから、提案書の精度をどれだけ上げても、順番は動きません。先に問われているのは、それを持ってきた人が、どういう人間かのほうです。
では、その「どういう人間か」は、何によって判断されているのか。18年間、執事としてお客様のご自宅に入り、無数の営業担当者を内側から拝見してきた立場から、順にお話しします。
第1章|富裕層には、共通する四つの特性がある
経済的自由を得ると、ものの見方そのものが変わります。私が現場で繰り返し確認してきた特性は、四つです。
- 未来志向:遠い先を見て、いまを決める
- お金:予算という制約がない
- 時間:無駄な時間を、何より嫌う
- 人間関係:損得ではなく、好き嫌いで人を選ぶ
この四つは独立していません。すべてが「経済的な制約がない」という一点から派生しています。順に見ていきます。
第2章|未来志向 ―「資産と時間のエレベーター」
私が研修でいつもお話しする図があります。資産と時間のエレベーターと呼んでいるものです。
資産と時間のエレベーターとは、資産が増えるほど視座が上がり、見通せる未来が遠くなっていく構造のことである。
学生の頃を思い出してみてください。考えていたのは、次のアルバイト代のことでした。社会人になり収入が安定すると、三年後の住まいや車を考えるようになる。さらに上がれば、十年後のキャリアを考える。
これが富裕層になると、二十年後、三十年後、そして次の世代になります。ある著名な経営者は「二百年後を見て今を決める」と語っています。極端に聞こえますが、私がお仕えしてきた創業家の方々は、三十代・四十代でも、六十歳で引退したあとの一族の姿を前提に、いまの判断をされていました。
エレベーターが上がるほど、遠くが見渡せる。遠くが見えるから、目先で一喜一憂しない。ここが決定的な違いです。
この構造には裏づけもあります。行動経済学のマラナサン=シャフィールは、欠乏そのものが人の認知の帯域を奪い、視野を目先に縛ると論じました(『Scarcity』2013年)。裏を返せば、経済的な余裕こそが、遠い未来を見通す力を生んでいる。
実務上、ここから導かれる結論は一つです。提案の時間軸を、相手に合わせて伸ばしてください。「いまお得です」は、三十年後を見ている方には届きません。「これは、二十年後にご一族にとってどう作用するか」まで語れて、ようやく検討の土俵に乗ります。
第3章|お金 ― 価格が主役になったら、それは価値が伝わっていない合図
富裕層のお客様には、基本的に予算という制約がありません。彼らは富を生み出す側であり、必要なら資金をつくる方法を知っている人たちだからです。
では「予算が合わない」と言われたとき、どう受け取るべきか。
あれは、断り文句です。正確に言えば、こちらの価値が伝わっていないという合図です。ここで「予算が」と受け取ってしまうと、営業として成長が止まります。どうすれば価値が伝わるか、どうすればニーズを引き出せるかを、考えなくなってしまうからです。
経済学でいう限界効用逓減が、そのまま当てはまります。資産が増えるほど、一単位のお金がもたらす満足は小さくなる。私たちにとっての百万円の値引きは大きなインパクトですが、十億円をお持ちの方には、ほとんど意味がありません。値引きでは、この層は動きません。
研修では、こう申し上げています。
三年後、五年後に自分の体を左右する病気が見つかったとき、名医の診察料を、あなたは値切りますか。
値切らないはずです。価値が明確なとき、価格は主役になりません。逆に言えば、価格の話が前面に出てきたときは、まだ価値が伝わっていない。それだけのことです。
第4章|時間 ― 同じ30分でも、主語が違えば価値が変わる
お金で大半のことは解決できます。しかし時間だけは買い戻せません。だから富裕層のお客様は、時間の浪費を何より嫌われます。
ただ、ここを誤解している方が多い。「短く済ませればよい」という話ではありません。同じ30分が、無駄にも有益にもなります。分けるのは、その30分の主語がどちらにあるかです。
こちらの話を一方的にする30分は、無駄な時間です。相手の話をお聞きする30分は、有益な時間になります。英語で言えば、主語を I から You に変えるということです。人は、自分のことを話すのが好きで、そして自分を理解してくれた相手を信頼します。
分かりやすい例を挙げます。ある百貨店の外商の方々にお伝えしたことです。催事のご案内を、全員に同じ文面で送っていました。私は、それならば送らないほうがましだと申し上げました。
一人ひとりに、この催事がその方のどこに役立つのかを一言だけ添える。あるいは電話を一本入れる。それだけで、無駄な連絡が有益な連絡に変わります。仮に的が外れていても構いません。「この人は自分のことを考えてくれている」という事実のほうが、はるかに大きいからです。
富裕層の時間の使い方そのものについては、執事の視点から紐解く、トップリーダーが持つべき「時間の帝王学」でも書きました。
第5章|人間関係 ― 損得で選ばない人たち
私たちは、人付き合いを損得で選びがちです。この人と付き合えば仕事になる、人脈が広がる、社内の評価が上がる。
富裕層のお客様は、そうではありません。損得ではなく、好き嫌いで人を選ばれます。理由は単純で、損得を気にする必要がない立場だからです。加えて、お金目当てで近づいてくる人を見慣れている。だからこそ、損得を超えた信頼を選ばれます。
選ばれる基準は、私の観察では三つです。
- 一緒にいて前向きになれること
- 同じ目線でものを考えていること
- 用事がないときにも、こちらを気にかけていること
三つ目が、最も差が出ます。用件があるときだけ連絡してくる相手を、この層は正確に見抜きます。
経営学における信頼研究でも、信頼の中核をなす要素として「善意(benevolence)」――相手の利益を本気で気にかけているか――が挙げられています(Mayerら, 1995年)。技術ではなく、姿勢の問題です。
第6章|口にされないニーズを、察する
富裕層のお客様は、要望を細かく語られません。説明の時間さえ惜しまれる。だから、言わずとも察する人を信頼されます。
私が一億円の温泉の件で犯した最大の失敗も、まさにここでした。お客様の「なぜ」を聞かなかったのです。単なる贅沢だと思い込み、その裏にあった「末期がんの母を静養させたい」という本当の願いに、半年間気づけませんでした。
察するために見るべきは、言葉ではなく仕草です。心の九割は、手・足・目・口調に出ます。
口では「いいですね」とおっしゃりながら、足が落ち着かない。頷きながら、視線が別のところにある。「あ、いいですね」と「いいですね」では、まったく意味が違う。この層は、人をあまり否定されません。だからこそ、否定は仕草にしか現れないのです。
言われたら、もう手遅れです。言われる前に汲み取る。それだけです。
第7章|本気度は、相手の「質問」に表れる
これは、多くの営業の方が逆をやっています。
富裕層のお客様は、提案を受け慣れています。売り込まれるほど、心を閉じられる。ですから、本気度は質問の量と深さに表れます。
ところが、こちらが完璧に説明してしまうと、相手は質問しなくなります。質問がなくなれば、本気度が測れない。そして一方的に説明された相手は、「もういいや」とシャッターを下ろします。
ですから、私は研修でこうお伝えしています。
あえて語らず、問いたくなる余白をつくる。
完璧に話しきらず、突っ込みどころを少し残しておく。すると相手は質問をされます。その質問に的確に答えたとき、人は相手を信頼します。
この点にも研究の裏づけがあります。ハーバードの研究では、問いを多く交わした相手ほど好意と信頼が高まることが示されています(Huangら, 2017年)。話す量ではなく、問われる量が信頼をつくるのです。
質問を引き出すための道具として、私はSPIN式ヒアリングを推奨しています。状況質問(Situation)、問題質問(Problem)、影響質問(Implication)、解決質問(Need-payoff)の順で伺い、提案は最後にしか出さない。
病院を思い浮かべてください。「喉が痛くて熱があります」「風邪ですね」と即答されるのと、丁寧に診察したうえで「風邪ですね」と言われるのとでは、結論が同じでも納得感がまったく違います。
そして重要なのは、買わなかったお客様です。この手順を踏んだ方は、来週か、一年後か、十年後か、必ず戻ってこられます。理解したうえで提案してくれた相手として、記憶に残っているからです。
第8章|属人的な個人戦から、次の段階へ
お客様と個人的な信頼関係を築く。これは第一段階として、極めて重要です。
ただし、ここで止まると危険です。担当者が変われば、お客様も離れてしまう。他社に似たサービスがあり、そこに知り合いができれば、簡単にひっくり返されます。
私自身、これで痛い目を見ました。「新井社長がいるから発注する」と言われるのは、正直に申し上げて気持ちのよいものです。しかし、それは同時に、私がいなくなれば終わる関係だということでもありました。
では、どうするか。感情で決められた判断を、個人 → 店舗 → 組織 → 企業という広がりで裏づけていくのです。
- 責任者や、その分野に詳しい人間を紹介し、面で受け止める
- 企業の過去(物語)・現在(理念)・未来(ビジョン)を、お客様の人生と重ねて語る
- ただし中心には、常に自分がいる
こうすると「このブランドといえば、この人だ」という位置が生まれます。属人的な弱さから抜け、担当者としての存在感はむしろ上がる。第一段階の個人的な信頼を、企業の物語で永続化させるということです。
第9章|最後に問われるのは、担当者自身の生き方
研修の最後に、私は必ずこの問いを置きます。
あなた自身が、未来志向と誇りを持って生きているか。
富裕層のお客様は、単にお金を持っているだけの人ではありません。相応の努力を重ね、多くを犠牲にし、経済的な成功に至った方々です。相続によって資産を得た方であっても、それを守り続けることは並大抵ではありません。ご家族にも、外からは見えないプレッシャーがあります。
そういう方々は、同じ目線で生きている人かどうかを見ています。規模は違って構いません。私自身、お客様と比べれば零細企業の経営者です。それでも「この人も、自分の理念と考えに基づいて生きている人だ」と思っていただけたとき、はじめて選ばれてきました。
私が著書を通じて一貫して申し上げてきた「相手思考」とは、突き詰めればこのことです。自分がよいと思うことと、相手がよいと思うことは違う。この一点が分からない方は、どれほど技術を磨いても、この層には届きません。
時代が変わり、富裕層の顔ぶれも変わりました。創業家だけでなく、まったく新しい形で富を築かれた方も増えています。消費の対象も、モノからコトへ移りました。それでも本質は変わりません。表面は移ろっても、自己実現に向かうという構造そのものは、いつの時代も同じです。
よくあるご質問
富裕層への営業で、最も重要なことは何ですか。
提案の中身より先に、「誰が持ってきたか」が問われるという事実を理解することです。富裕層のお客様は感情で決め、論理はあとから足されます。この比重を見誤ると、どれほど精度の高い提案書も順番を動かせません。
「予算が合わない」と言われたら、どうすればよいですか。
価格の問題ではなく、価値が伝わっていない合図と受け取ってください。富裕層のお客様には基本的に予算の制約がありません。値引きで動く層ではないため、価値の伝え方を見直すのが正しい対応です。
「資産と時間のエレベーター」とは何ですか。
資産が増えるほど視座が上がり、見通せる未来が遠くなっていく構造を、新井直之が呼んでいる名称です。一年先を見る人と、次世代を見る人とでは、同じ提案でも受け取り方がまったく異なります。
富裕層のお客様の本音は、どうすれば分かりますか。
言葉ではなく仕草を見てください。心の九割は手・足・目・口調に出ます。この層は人を否定しないため、「いいですね」という言葉と本心が一致しないことが少なくありません。
提案を聞いてもらうには、どう話せばよいですか。
話しすぎないことです。完璧に説明すると相手は質問しなくなります。あえて余白を残し、問いたくなる状態をつくってください。本気度は質問の量と深さに表れます。
この内容で研修を依頼できますか。
承っております。金融、不動産、保険、自動車、宝飾、百貨店など、富裕層のお客様を担当される部門向けに実施しています。講演形式は90分から、研修形式は半日・一日での設計も可能です。
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執筆者について
新井直之(あらい・なおゆき)
執事/おもてなし・ホスピタリティ・富裕層専門家・ビジネス書作家。日本バトラー&コンシェルジュ株式会社 代表取締役社長。一般社団法人 日本執事協会 代表理事、同協会附属 日本執事学校 校長。
2008年の創業以来18年にわたり、資産家・企業経営者・著名人のご自宅に執事として入り、日常の一部始終に立ち会ってきました。本稿の内容は、企業向けの研修で実際にお話ししている内容にもとづいています。
著書は累計50万部を超え、台湾・中国・韓国などで翻訳出版されています。代表作に『執事だけが知っている 世界の大富豪 58の習慣』(幻冬舎)、『執事が教える 相手の気持ちを察する技術』(KADOKAWA)、『執事のダンドリ手帳』(クロスメディア・パブリッシング)があります。
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